この記事は前回の記事の後編です。↑の前編もお読みください。
ROCKETでの出会い
タンタンの考え方は私には斬新でした。
目をキラキラさせて好きなことをしているタンタンを見て、 すごいなあ、と私までワクワクしたものです。
身内一同が反対していたホームスクールですが、タンタンと私に、とても希望をくれた出会いがありました。
新しくスタートしたロケット異才発掘プロジェクト、それがご縁で出会った、山下ひかるくんと、ひとみさんです。
ひかるくんは、タンタンにとって、まわりに自分よりすごいと思える子供がいなかった中ではじめ て、すごい!と思えた子供でした。
私にとっても、ひとみさんとのお話は新鮮でした。
ホームスクールの先輩からの言葉にはたくさんのヒントがあって
「成果物は作るようにしてる」
とひとみさんが話してくれた時に、なるほど、と成果物を意識するようになったり、 「タンタンは研究熱心だけど、アウトプットする機会がない」
と話したときには
「ひかるはブログとか、かな」
と聞いて、タンタンが早速ブログを始めたりとか。
それらは、タンタンの世界を広げることにつながりました。
今でも、タンタンはひかるくんのことを聞くと目をキラキラさせます。
日本はあわない・・ニュージーランドに移住したい!
いろいろと調べていたタンタンが
「自然を大事にするニュージーランドに移住したい」
と、言ったのは小2の終わりの頃でした。
きっかけは、ロケットプロジェクトの合宿でした。
いろいろな意味で日本はタンタンに合わないと、タンタンも私も思っていました。
けれども住宅ローンもあって、留学するようなお金がありません。
何とか方法がないか調べました。
すると、お金がたくさんなくてもなんとか行ける方法がありました。
NZ留学事情を調べる・・
専門技術を持っている人は、技術を広めてくれるのでその国のためになるので、ワークビザがとりやすいと知りました。
長いワークビザが取れると、現地の子供と同じような条件で学校に通えます。
そして永住ビザが取れた場合は、子供の学費のために親が貯金をする必要もないそうです。
高校入試はありませんし、普通の高校なら学費がほぼかかりません。
中学校と高校はひとまとまりなので、その間に、授業で必要な単位を取れば、大学に入れるそうです。だから大学入試もありません。
また、大学に、学生ローンで通う生徒には、国から応援の意味でお小遣いが出るそうです。
そのお小遣いの総額は、借りたローンの総額よりも少し多いと聞きました。
だから子供の学費のためにお金をたくさん貯める感覚は、NZ現地の人にはあまりないんじゃないかな、と住んでいる方に聞きました。
大学院まで行って研究をしたいと願っていたタンタンでしたし、うちにお金がなく、日本で大学院まで行けるか金銭的に難しいということも話していましたから
「もしニュージーランドで永住ビザが取れたら、大学院までタンタンにもいけるよね」 と話すようになりました。
NZのビザは条件が厳しく、とるのは簡単ではありません。
パパは、長年シェフをしていて、労働ビザの条件はクリアしていました。
スキルノートを活用!1年以上、毎日パパを説得し・・・
日本でのパパの状況です。
パパが働いていたレストランは仕事がきつくて、タンタンが生まれてからすでに4回、家族に黙ってオーナーに辞表を出していたほどでしたが、引き止められて続けている状況でした。
NZでは、日本よりも労働時間が短いしお休みが多いです。
もしかしたら今のお店をやめて、海外でやってみるのが怒りっぽくなったパパがいい方に変わるきっかけになるかもしれない、とわずかな期待を持ちました。
タンタンがパパに 「NZにいきたい」 と話してみると、激高して反対されました。
「俺の人生をなんだと思ってるんだ!」
そして
「またお前(私)が言いくるめたんだろう!」
それはそうですね、普通に考えると。
小2の子供が海外に住みたいなんて自分から決めるわけがない。親の入れ知恵だろうと。
今までもずっと、タンタンの口から出た言葉は自分の頭で考えたことばかりなのです。
私がタンタンに教えてもらっていることの方が、多かったのですから。
私が何か言うとパパが怒鳴る事態になるので、海外行きの件は私は何も言わずタンタンだけがパパにお願いをすることになりました。
タンタンは今までスキルノートでやってきた、人との円滑なコミニケーション方法をパパに実践していきました。 (※スキルノートは前編参照)
朝と夜、パパが家に帰ってくるのを待って、神経を逆なでしないようにお願いをして、お手紙を渡して。
1年以上毎日のお願いを続けたころ、タンタンは独学で勉強していた英語をパパに披露しまし た。
暗記した英文が、スラスラ出てくることに驚いたパパは
「海外ではちゃんと学校に通うのが約束だよ」
と、海外で労働ビザを取って仕事をすることを決めたのでした。
家族でニュージーランドへ
パパが一足先に日本を出て、NZで暮らす環境を整えてから、私とタンタンを呼ぶことになりました。
NZで3年間の労働ビザをとれたので、3年以内には私とタンタンもローンの残った家を売却して、パパのところに行く予定になりました。
パパがいない生活は、とても平和でした。
「おマミ、パパがいないとすごく平和だね。パパとママはいつか離婚するんでしょ?パパ、何回も、 もう離婚だって言っていたもんね。そしたらタンタンは、ママと住むね」
「タンタン、NZと日本で離れている間に、パパの怒鳴りが治っていたら、離婚しないかもしれない よ。また一緒に暮らしてから考えようね」
私は家でお菓子を作る仕事、タンタンは好きな貝の研究をしながら、2年ほど過ごしました。
パパがNZにいられる期間が残り1年になったので、日本に売却途中の家を残したまま、私たちも 渡航することになりました。
パパの労働ビザは1年間残っているので、その間は学費はほぼかからずに現地の学校に通えます。
「おマミ、もしパパがニュージーランドを気に入って、永住ビザを取ってくれたらいいね」 「タンタン、ビザが更新できなかったら、1年で日本に戻ることになるよ。永住ビザ、取れたらいいけど難しいかな」
ニュージーランドは、貝、石、化石の持ち込みができないので、今までタンタンが採集した標本たちは日本に置いていくことになりました。これについてはひと悶着ありました。
そして、タンタンと私も、NZに到着しました。
学校などの手続きは、パパのレストランの同僚の女性が助けてくれました。
その女性は日本人で、家族で移住していました。すでに永住ビザを持っていました。 明るくて、素敵な女性で、私も好きな女性でした。
タンタンはその方のお子さんと一緒に、現地の学校に通うことになりました。
帰りは私とタンタンとで、一緒に下校する生活が始まりました。
NZでは、大人も子供も、はだしで外を歩く人が多いのに感心しました。
NZでの生活
私とパパとの会話は、ほとんどないままでした。
基本は優しいパパですが
「NZに1人で来て苦労したんだ!俺の人生をめちゃくちゃにしやがって!」 と、しばしば私とタンタンに向けられるパパの怒鳴りは、日本にいた時よりもひどくなっていまし た。
私は以前から、怒鳴られる時は早く終わってほしくて、黙って聞き流すようにしているのですが、 このころは涙が出るようになっていました。
タンタンは、以前からパパの怒りが私に向くとき、私を守ってくれていました。
小さなころは理詰めで怒鳴り返していましたが、12歳になってパパを正論で論破するようになっていました。それはパパを余計にいら立たせました。
「おマミ、パパが怒鳴っても、ジャガイモかなにかと思っていたらいいんだよ。タンタンはそう思ってるから平気だよ。」
お世話になっていたパパの同僚の女性は、毎日様子を見に来て、私やタンタンとも仲良くなりまし た。
我が家の状況を知ったうえで、いろいろと力を貸してくれました。
NZに行って4カ月ほど経つ頃です。タンタンが学校に行っている間に、私はパパに1時間ほど怒鳴られ続けたことがありました。
怒鳴られていた内容は、
「俺の人生をめちゃくちゃにしやがって」
「お前が育てたせいで全てめちゃくちゃになった」
というようなことです。
誰が見ても、落ち着いたいい子に育ったタンタンの子育てを、パパだけには批判され続けたのは、以前は聞き流せましたが、NZに来てからは言われるたび心に刺さりました。
その日、怒鳴られているときから涙が止まらなかったのですが、パパが仕事で出て行ってからも ずっと止まらず、恥ずかしく思いながら涙を流したままタンタンを迎えに行きました。
その時から涙が止まらなく、夜は眠れず呼吸も苦しくなったり、胃の調子もずっと悪くなりまし た。
髪は抜け、進行性脱毛症になっていました。
このころの、タンタンの学校生活
日本での支援級よりも、勉強はしないし自由でした。学校は早く終わるし、小学校は宿題も少な かったです。
「おマミ、クラスに日本だったら『発達障害ですね』っていわれるような子がいっぱいいるよ」
移民が多いNZは、英語が理解できない生徒は珍しくなく、助けてもらいながらやっていました。
学校ではチェスができる時間があり、数学とチェスの得意なタンタンは、学校の代表チームに選ばれたりと、程よく刺激のある日々を送っていました。
NZで半年ほど経ったころ、貝の研究をしている先生とタンタンとのつながりができました。
遠くの大学の先生で、専門用語満載の長文メールを、頻繁にやり取りし始めました。
「タンタン君は、先生の子供のころのようだ」 とかわいがってもらっていたと思います。
パパの労働ビザは延長することが決まり、もう少しNZにいられるようになりました。
ただ私は、体調の悪化とどんどん髪が抜けて、頭皮が見えるようにまでなっていました。
「このままいくと頭がつるつるになっちゃう。つるつるの姿は、タンタンに見られたくない…。でもタ ンタンの成長を近くでもっと見ていたい」
悩みました。
タンタンは、心配して
「おマミ、パパから一度離れた方がいいよ。日本で治したらいいよ。タンタンは、おマミとは、離れても、心がつながっているから大丈夫。やり取りだって毎日できるよ。タンタンは、ビザがとれる可能性にかけるよ。」
と。
そして、パパの同僚の女性が
「うちの家族とみんなで一緒に住んで、タンタン君も応援するから大丈夫」 と言ってくれたこともあり、急遽私だけ帰国することになりました。
帰国してしばらくは体調もなかなか戻らず、まだまだ泣いて過ごす毎日が続きました。
タンタンは、毎日優しいメッセージをくれました。
タンタンにはNZの生活は程よく刺激のある毎日のようで、元気にしています。
私はなかなか立ち直れませんでしたが、助けてくれる人もいたことで静かに何もせずに休ませてもらうことができました。
そんな中、ローンの残っていた家を買ってくれる方が見つかりました。
思い出いっぱいの家を売却したら、離婚の手続きを進めてタンタンの親権はパパになります。
親権がパパになるのは、私には辛いものがありました。
私には、NZでビザをとる条件が足りませんでした。
これからのタンタンのためになるのはビザが取れる可能性のある、パパです。
タンタンが生まれてから子育てのほとんどを私がしましたし、タンタンとは2人でたくさんのことを乗り越えてきたので、タンタンを理解しようとしないでずっと怒鳴ってきたパパに親権を渡すのは、なかなか受け入れられずにいました。
「タンタンはニュージーランドで生活したい」 と話すタンタンをずっと応援してきました。
タンタンのやりたいことを応援する気持ちはずっと変わ りません。
でも、家族ではなくなることがとても辛く感じました。
「おマミ。タンタンはおマミとは心がつながっているし、尊敬してるから親権とか離婚とかはタンタンには重要じゃないよ。タンタンはNZでできるだけやっていきたい。おマミは元気になってほしい」
そういうタンタンの言葉もあり、私は日本で新しく人生を踏み出すことになりました。
タンタンがずっと応援してくれていた、健康になるためのお菓子の販売を始めようと決めました。※そのお話についてはこちらをご覧ください。
タンタンとの思い出が多い場所にいるのは辛くて涙が出るので、今までとは違う知り合いもいない土地で、何もない状態から店舗は持たず、ネット販売メインの菓子工房を始めることになりま した。
※グルテンフリー シフォンケーキのお店 プティジェルム
今年の夏には髪が抜けていたところが、やっと見えなくなりました。
今はお菓子の販売を、細々としています。
タンタンと戸籍上の家族でなくなり離れて生活することになったことは、今でも、乗り越えて吹っ切れたとは言えません。
でも、タンタンと私のつながりは変わらずあたたかくて、タンタンが自分の研究や生活で充実していることがとてもありがたくて私の宝物になっています。
これからもタンタンが心置きなく、好きなことができる日々が過ごせますようにと、日本から願う毎日です。
↑タンタン研究サイト